2026/7/31
大相撲名古屋場所で優勝し、大関復帰を果たした安青錦関が、優勝後のインタビューで「すごく嬉しいです」と語りました。私は、その一言にとても好感を抱きました。
最近は、SNSなどを中心に、「むちゃくちゃ美味しかった」「むちゃくちゃ嬉しい」といった表現を目にすることが増えました。現在では、「むちゃくちゃ」を程度を強める副詞として用いることも認める向きがあり、必ずしも誤りとは言えないようです。しかし、私にはどうしても違和感が残ります。本来、「むちゃくちゃ」とは、物事の秩序が失われ、混乱した状態を表す言葉です。その言葉が「とても」や「すごく」と同じような強調表現として使われることには、いささか戸惑います。
言葉は人が使うものであり、時代とともに変化していくことは自然なことです。いわゆる「言葉の揺らぎ」は、ある意味で文化の営みとも言え、一定程度は受け入れるべきものだと思います。実際、明治以降のおよそ百五十年間、共通語の普及や教育制度、新聞・ラジオ・テレビなどの発達によって、日本語は比較的安定していたとの見方もあります。その一方で、各地に受け継がれてきた豊かな方言が、かなり失われたことも事実です。これもまた、時代の流れとして受け止めなければならないのでしょう。
しかし、言葉が変化することと、言葉を大切にしなくなることは別の問題ではないでしょうか。意味や用法が急激に変わり、多くの人が違和感を抱くような表現まで、時代の流れとして諾々と受け入れてしまうことについて、私は慎重であるべきだと思っています。言葉の揺らぎを認めながらも、その大きな乱れまで当然視すべきではなく、言葉が本来持っている意味や背景を大切にする姿勢を失ってはならないと思います。その意味で、私は今なお、「むちゃくちゃ」を強調の副詞として使うことには抵抗があり、それこそ「むちゃくちゃ」ではないかと思えてしまうのです。
もっとも、私が言葉について何より大切だと思うのは、正しさだけではありません。大切なのは、どのような思いで、どのように言葉を届けるかということです。以前、中学校の卒業式で、私は「舌刀(ぜっとう)」という言葉を紹介しながら祝辞を述べたことがあります。「舌刀」とは、刀のように鋭い言葉が相手の心を切りつけてしまうことを表した言葉です。そのとき卒業生の皆さんには、「言葉には人を励まし、勇気づける力がある一方で、人を深く傷つける力もある。自分が発する言葉には十分気をつけてほしい」と伝えました。
言葉は、発した人の意図を超えて相手の心に届くことがあります。本人にそのつもりがなくても、相手を傷つけてしまうこともあります。表現の揺らぎですら、人によっては違和感を覚えることがあるわけですから、相手を傷つけることを目的とした暴言は、決して許されるものではありません。とりわけ昨今は、激しい言葉で相手を罵倒し、人格まで否定するような表現が社会問題となっています。こうした言葉は、まさに「舌刀」とも言うべきものであり、社会の分断を深めることにつながるのだと思います。
私も、言葉を用いる仕事に携わる一人です。もちろん、毅然として批判しなければならない場面もあります。しかし、それは感情に任せた罵倒ではなく、節度と品位を備えた言葉であるべきです。これからも、相手の立場を思いやりながら、一つ一つの言葉を選んでいきたいと思っています。
安青錦関の「すごく嬉しいです」という一言を聞きながら、私は改めて言葉の美しさや、言葉を遣う責任とは何かを考えさせられました。時代とともに、言葉は変わっていきます。けれども、相手を思いやる心まで変えてはならないと思います。相手が今、どのような状況に置かれているのかは、外からは分からないことも少なくありません。かける言葉一つが相手の心に大きな影響を及ぼします。
「すごく嬉しい」という素直で温かな言葉を耳にすると、私もまた、とても嬉しい気持ちになるのです。
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