2026/8/1
私は毎朝、NHKの連続テレビ小説「風薫る」を楽しみに観ている。
先日の放送で、主人公の一人である直美が大学病院を辞め、自ら「看護婦派出」を始めようと決意する場面があった。
病気になっても、貧しい人は病院へ行くことができない。治療を受けたくても、お金がなければ受けられない。大学病院に勤務しているだけでは、そうした人たちを救うことができない。
「それなら、自分でやろう」
直美はそう考えたのである。
私は、この発想を素晴らしいと思った。目の前にある社会の問題を、誰かが解決してくれるのを待つのではなく、自分自身の問題として受け止めているからである。
私が直美と同じ立場だったら、やはり同じようなことを考えるのではないか。そんな思いで観ていた。
◯お金持ちから多く、貧しい人からは少なく
しかし、ここで大きな問題が生じる。
貧しい人を助けたいと思っても、その人たちから十分なお金を受け取ることはできない。無料で看護を続けていては、事業そのものが立ち行かなくなってしまう。
そこで直美たちは、患者をいわば「松・竹・梅」のように分け、お金に余裕のある人からは多めに料金をいただき、生活の苦しい人からは少額、あるいは無料にするという仕組みを考える。
これに対して、「同じ看護を受けるのに料金が違うのは不平等ではないか」と考える人もいるかもしれない。
しかし、私はこれはこれで平等、より正確に言えば「公平」なのではないかと思う。
全員を同じように扱うことだけが平等ではない。それぞれの置かれている状況や負担能力に応じて扱いを変えることで、誰もが必要なサービスを受けられるようにする。それもまた、社会に必要な公平の考え方である。
何でも横並びにし、すべてを同じ回数、同じ金額、同じ基準で扱う。そうした四角四面の平等が、かえって現実に合わないこともある。
◯堤防の草刈りも一律でよいのか
この場面を観ながら、私は大垣市内の堤防の草刈りについて考えた。
大垣市には多くの堤防がある。夏になると、どの地域でも草刈りに苦労している。地域の担い手は減少し、高齢化も進んでいる。草刈りをしたいと思っても、体力的にできない人も増えている。
行政も年に一度は堤防の草刈りを行っている。しかし、市内のすべての堤防を基本的に同じように扱うことが、本当に平等なのだろうか。
一口に堤防といっても、その利用状況は大きく異なる。
田んぼの中を通り、ふだんは人や車がほとんど通らない堤防もある。一方で、小学生の通学路になっていたり、住民が毎日のように利用する生活道路になっていたりする堤防もある。
行政からは、「堤防の草刈りは美観のためだけに行っているのではない。堤防に生じた小さな穴や亀裂、異常を発見しやすくするために必要なのだ」という説明があるかもしれない。
もちろん、堤防を安全に管理するという本来の目的は重要である。
しかし、現実には、堤防道路が子どもたちの通学路や市民の生活道路として利用されている場所がある。草が高く伸びれば、小さな子どもの姿が隠れてしまい、自動車の運転手から見えにくくなる。交差点やカーブでは、草によって見通しが悪くなり、交通事故につながる危険もある。
そうであるならば、堤防の草刈りも、利用状況や危険性に応じて優先順位をつけてもよいのではないか。
◯堤防を「松・竹・梅」に分ける
例えば、堤防をA、B、Cの三段階に分類する。
小学生の通学路や交通量の多い生活道路になっている場所はAランクとし、年に二回以上草刈りを行う。
散歩や地域住民の移動に一定程度利用されている場所はBランクとし、年に一回程度行う。
田んぼの中を走り、利用者が少ない場所はCランクとして、堤防の安全確認に支障がない範囲で実施時期や回数を見直す。
もちろん、「Cランクだから二年間まったく点検しなくてもよい」ということではない。草刈りの回数と堤防そのものの安全点検は、分けて考える必要がある。
限られた予算と人手を、利用頻度が高く、事故の危険性も高い場所へ重点的に投入する。これは不平等ではなく、必要性に応じた合理的な行政運営ではないだろうか。
すべての堤防を形式的に同じように扱うよりも、結果として市民の命や暮らしを守ることにつながるはずである。
◯排水路清掃にも必要な優先順位
同じような発想は、地域の排水路清掃にも当てはまる。
現在、多くの自治会で排水路清掃の担い手不足が深刻になっている。高齢者にとって、排水路の中に入って泥や草を取り除く作業は大きな負担であり、転倒やけがの危険もある。
それにもかかわらず、昔から続いてきたという理由だけで、すべての排水路を毎年、同じ方法で清掃することが求められている地域もある。
しかし、排水路にも違いがある。
土砂や草がたまりやすく、放置すれば住宅への浸水につながる排水路もあれば、水の流れが比較的よく、毎年清掃しなくても機能に大きな影響がない排水路もある。
危険性、住宅への影響、土砂の堆積状況、作業の難しさなどを調査し、行政が重点的に対応すべき場所、自治会と協力して対応する場所、清掃頻度を減らせる場所に分類することも考えられる。
地域住民に一律の負担を求めるのではなく、本当に必要な場所へ人手と予算を集中させるのである。
◯平等とは「同じにすること」だけではない
行政は公平でなければならない。
だからこそ、行政は一律の基準を好む。地域によって対応を変えれば、「なぜあちらは年二回で、こちらは一回なのか」という不満が出る可能性もある。
しかし、住民の利用状況も、地域の危険性も、担い手の人数も異なる。それを無視して、すべてを同じに扱うことが、本当の公平なのだろうか。
必要性の高いところに、より多くの支援を行う。
自分たちだけでは対応できない地域に、行政が手を差し伸べる。
危険性の高い場所を優先し、市民の命を守る。
そのためには、「全部同じでなければならない」という発想から一歩踏み出す必要がある。
朝ドラの直美は、貧しい人にも看護を届けるため、患者の支払い能力に応じて料金を変える仕組みを考えた。
大切なのは、全員から同じ金額を受け取ることではない。必要な人が看護を受けられる社会をつくることである。
堤防の草刈りや排水路清掃も同じだと思う。
すべてを横並びにすることを目的にするのではなく、何のために行うのか、誰の安全を守るのかという原点から考える。
「一律の平等」から「必要に応じた公平」へ。
直美の行動を観ながら、これからの行政にも必要な発想ではないかと考えさせられた。
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