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野口 和彦 ブログ

小説『スイッチバック』 第10話 七割五分のグランドデザイン

2026/7/20

 

 余市から戻って三日。和馬は純喫茶のいちばん奥のテーブルに、旅の記憶のすべてを広げていた。

 吉野で授かった木の技の走り書き。源蔵にもらった、のらぼう菜の種袋。そして杉山夫婦が握らせてくれた、あの赤いスパークリングの一本。テーブルの上に、それらが静かに並んでいる。

 顔ぶれも揃っていた。まさひろ、丸木、ゆき、原沢、シスコ。そして今夜は、万能ファームの世話役・加藤もこの輪にいた。土に惚れた若者たちの代表を、和馬が呼んだのだ。この絵は、彼らの畑の上に描くものだから。

「で、どうすんのさこれを」ゆきが脚を組み替えた。「土産話は堪能したよ。あたしが聞きたいのは、その先だ」

「見てもらったほうが早い」

 和馬は大きな模造紙をテーブルに広げた。ペンを取り、街の形を描きはじめる。

 まず真ん中に、曲がりくねった一本の線。錦川だ。その両脇に、山を描いていく。万能の七割五分。眠れる緑の懐。

「万能の山を、譲与税で起こす」

 和馬のペンが、川の源のあたりをなぞった。

「吉野で見た、密植多間伐長伐期。山守の仕組み。眠った金で山守を雇って、持ち主のわからん山をまるごと預かって起こす。間伐も進める。育てた錦川材は安売りしない。まず、自分たちの街の学校を木質化するのに使う。木が子どもを守り、山に金が戻る」

 ペンが、川沿いから湾までなぞった。

「さらに、川下の自治体とは錦川材サミットで連携して、森林環境譲与税での万能の山の整備と、それに伴った間伐材で、公共施設や学校の木質化も受け入れてもらう。」

 ペンは次に、山沿いの斜面をなぞった。

「この石灰の岩盤の土に、葡萄を植える。余市で見た寒さに強いピノ。冷える万能の山とこの痩せた石灰の土は、ブルゴーニュと似ている顔をしてる。ここで紅金――赤のワインを造る」

 和馬は赤いスパークリングの瓶を、模造紙の上にとんと置いた。

「しかも、ただの赤じゃない。赤の泡だ」和馬は続けた。「泡ワインの世界で、白が八割、ロゼが一割五分。赤はたったの二分だ。しかもシャンパンは、向こうの法律で白とロゼしか認められない。高級な赤の泡には、王者がいない。その空っぽの玉座を、万能が獲る。『安いから来てください』じゃない。『これを飲みに、わざわざ来た』と言わせる一本にする」

 面々が、その深いルビーの瓶をじっと見た。誰も口を挟まなかった。

「畑の足元では、源蔵さんの固定種の野菜を育てる」和馬は加藤のほうを見た。「万能ファームのみんなの手でな」

 加藤がはっと顔を上げた。

「私たちの畑で……そんな大それたことが」その声がかすかに震えた。「役所にいつも撥ねられてきたんですよ。畑を増やすな、朝市の場所は貸さん、って。それが……この街のど真ん中に描かれてるなんて」

「あなたたちが、この絵の中心だ」和馬は静かに言った。「山の木。石灰の葡萄。畑の野菜。ぜんぶこの街の土から採れる、この街だけのものだ。それを育てる手が、あなたたちだ」

 加藤はしばらく模造紙を見つめ、それからぐっと唇を結んで頷いた。目のふちが、赤かった。

「きれいな絵だ」まさひろが煙を吐いた。「だが金は? 葡萄が実るまで、何年も一円にもならんのだろう。その間誰が食う」

「そこも余市で答えをもらった」

 和馬は川の下流のほうに、いくつもの小さな丸を描いた。

「ワインの木のオーナー制度。畑の木を一本ずつ、川下の都会の応援したい人に、オーナーになってもらう。実る前から金が入る。しかも、その人らはもう客じゃない。毎年ワインが届くのを待つ仲間だ。野菜もこれから増える畑も、同じでいい。実りを待ってくれる人を、街ぐるみで先に集める」

「ふるさと納税と、同じ思想だな」原沢が眼鏡の奥で目を光らせた。「実りを担保に、先に人を巻き込む。で、それを回す器は?」

「二枚看板だ」和馬は頷いた。「山林や農地を集めて、行政の信用で守るのは、農業法人の第三セクター。ブランドを売ってオーナーを集めて金を回すのは、株式会社の第三セクター。行政の信用を纏う顔と、商いに身軽な顔。おなじ官民の器を、得意分野で二枚使い分ける。片方だけじゃ越えられない壁を、二枚で越える」

「そして、その全部をひとつの事業として県に出す」原沢が先を引き取った。「地域未来投資促進法。市の補助金の外を通る水路だ」

 純喫茶が静まり返った。

 模造紙の上でばらばらだった線が、いつのまにか一枚の生きた絵になっていた。眠れる七割五分が、初めて重荷ではなく街を丸ごと動かすエンジンとして、そこにあった。

「……あたしの負けだ」ゆきがふっと笑って脚を組み替えた。「ここまで描けたなら、あたしの民間の金、机に乗せてやるよ。半分はまだ疑ってるがね。疑いながら賭けるのが、金庫番の仕事さ」

 テーブルが静かに沸いた。丸木が「なんか武者震いしてきたぜ」と肩をぶるりと震わせる。シスコが「これ、ママ友に見せたら泣く子いるよ」と目を潤ませた。

 和馬はその輪を見渡しながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。この街に来た夜、終電のホームで、腕の中の老人が言った。この街はまだ救える、と。あの言葉が、いま一枚の模造紙の上で、確かな形になろうとしていた。

「でもさ」

 口を開いたのはシスコだった。エコバッグを膝に抱えたまま、模造紙をじっと見ている。

「この山、ぜんぶにこれをやるの? 七割五分でしょ。……とんでもなく、広いよ」

 和馬の手が、止まった。

「道は? 水道は? 電気は?」シスコは、母親の現実の目をしていた。「畑を作るにも、人が働くにも水がいる、電気がいる。この山ぜんぶに、上下水道と道路と電線を通すなんて――いったい、いくらかかるの。何十年かかるの」

 テーブルの熱が、すっと引いた。

 原沢が電卓を叩き、低く唸った。「無理だな。この面積にインフラを一から通すなんて、市がいくつあっても足りん。七割五分が広いってことは、それだけ通す線も長いってことだ。豊かさが、そのまま金食い虫になる」

 和馬は、ペンを握ったまま、動けなくなった。

 ついさっきまで、この手は街を丸ごと描き変える魔法の杖のように思えていた。山を起こし、葡萄を植え、赤い泡で世界を狙う。誰もがその絵に息を呑んだ。なのに――シスコの、たったひとつの母親の問いが、その魔法を砂の城のように崩していく。水道。電気。道。暮らしのいちばん地味な足元。そこに和馬は、何ひとつ答えを持っていなかった。

 握ったペンが、急に鉛のように重い。模造紙の上のあの生きた絵が、みるみるただの絵空事に見えてくる。この広さは宝だと、さんざん皆に説いたばかりだった。その同じ広さがいま、和馬の目の前に越えようのない壁としてそびえていた。

持っているものが、多すぎる。豊かすぎて、その豊かさに押し潰されそうになっている。――それは、和馬自身がずっとこの街に感じてきたあの重さと、寸分たがわなかった。子どもが減ったから学校を畳む。土地が広すぎるから手が出せない。多すぎて、重すぎて、動けない。この街のすべての問題と同じ構図がいま、和馬自身の無力として、肩にのしかかっていた。

 広すぎる土地の呪い。

「……インフラを、通すんじゃないのかもしれない」

 長い沈黙のあと、和馬はようやくぽつりと言った。自分でも、まだ形にならない何かを手さぐりで掴むように。

「水も電気も外から引くんじゃなくて、その土地の中で自分でまかなう。外の水路に繋がなくても、暮らせて作れる。そういうやり方が、もしどこかにあるなら」

「あるのか、そんなもんが」まさひろが訊いた。

「わからない」和馬は正直に言った。「でも、探す価値はある。この呪いを解かないかぎり、絵は絵のままだ」

 答えのない問いが、模造紙の隅にひとつ、重く残った。

 その時、原沢の電話が短く震えた。画面を見た彼の顔がこわばる。

「……動いたぞ」原沢は低く言った。「県の基本計画。その策定へ向けた議題が、県で正式に上がった。誰かが上から押した」

「藤原さん、か」和馬は思わず呟いた。鎮守の森で、あの女性議員が「風の噂です」と言い残したその通りに。

「だが」原沢の指が画面をスクロールする。「同じ日に、市議会のほうで、妙な動きがある。『拙速な計画は財政を危うくする』と、待ったをかける動議だ。旗を振ってるのは、川上の息のかかった議員たちだ」

 純喫茶の空気が、ぴんと張りつめた。

 県が扉を開けようとした、まさにその瞬間に。市議会が内側から閂(かんぬき)をかけにきた。表で県を動かす藤原と、裏で市を締める川上。見えない盤の上で、二つの手が和馬の絵を挟んで、動きはじめていた。

「もうひとつ」原沢が声を落とした。和馬だけに聞かせるように。「お前が余市に行ってる間、お前のアパートの周りを嗅ぎ回ってた奴がいる。シスコのママ友網が拾った。見慣れない黒い車。地元のもんじゃない。同じ車を二度見たそうだ」

 和馬の背筋を、あの雪原に消えたヘッドライトの記憶が、冷たく撫でた。

 北まで尾けてきた手は、気のせいではなかった。そしてその手はいま、この街で和馬のすぐ近くまで伸びてきている。封筒の男を、駅のホームで静かに消したその手が。

「和馬」まさひろが煙草を灰皿に押しつけた。その目が鋭かった。「お前いったい何に首を突っ込んでる。ただの地域振興の新人が、なんでこんなに狙われる」

 テーブルの全員が、和馬を見た。

 和馬は一瞬言葉に詰まった。潜入者。機関。封筒。他殺。言えることは、何ひとつなかった。だが嘘もつきたくなかった。

「……たぶん、この絵が本物だからです」和馬は慎重に言葉を選んだ。「誰かにとって、よっぽど都合が悪いくらいに。眠らせておきたかったものを、起こそうとしてる。だから止めにくる。巻き込んですみません。危ないと思ったら、いつでも抜けてください」

 しばらく沈黙が落ちた。

 やがてゆきが、ふっと笑って脚を組み替えた。

「抜ける? 冗談じゃない」彼女は言った。「狙われるってのは、図星を突いてる証拠さ。あたしはこういう博打なら、大好きだよ」

「俺も蜂の巣はでかいほうが、燃える性質でね」丸木がにっと笑った。

 加藤もまっすぐ和馬を見た。「私たちは、もうずっと踏まれてきました。今さら怖いもんなんかないですよ」

 和馬の胸に、熱いものがこみ上げた。ばらばらの共通点なんて何ひとつない面々が、いま一枚の絵の下に確かに束ねられていた。

 会計を済ませ店を出ると、夜気が頬を刺した。街灯の下に、毛糸の帽子の小柄な影が待っていた。いつものように。

「いい絵になったな」小鹿野爺はにっと笑った。聞いていたらしい。「山も、木も、土も、葡萄も、ぜんぶ一本に繋がった。市臣の爺さんが見たら腰を抜かすぜ」

「でも名前が…」和馬は苦笑した。「県に出す計画の名前が『万能山間地域経済牽引事業計画』なんです。硬くて、事務的で……誰の心も動かない」

「ふん。役所の名前ってのはそういうもんさ」爺は鼻を鳴らした。「まあ、名前はあとでいくらでも化ける。旗の色は中身が決まってから選べばいい。今は中身だ」

 爺は夜空を見上げた。山の上に、冬の星がいくつも瞬いている。

「だがな坊主。ひとつ抜けてるものがある」

「抜けてる?」

「ワインだ」爺は言った。「お前は紅金を手に入れた。街の看板の酒をな。だが――酒だけで宴になるか?」

 和馬は、はっとした。

「ワインが決まった。だがワインだけじゃ宴にならねえ」爺の声が、夜気に低く沈んでいく。「昔からな、この国じゃ人が土地に礼を言いたくなると、その土地の恵みをぜんぶ一つの膳に載せて、車座になって食った。山のもん、畑のもん、水のもん――ぜんぶ、神さんと分け合うみたいにな。それが宴ってもんのはじまりよ。土地が与えて、人がいただきます、と手を合わせる。そのぐるりと回る輪が、その土地を生かしつづけるのさ」

 爺は星の下で、目を細めた。

「うまい酒にはそれを引き立てる、うまい肴がいる。ワインに合う食がいる。それが揃って、はじめて人は、わざわざ遠くからこの街まで、飲みに、食いに来る。酒と食が手を組んで、はじめて街は、ひとつの宴になるのさ」

 紅金を引き立てる、食。

 和馬の頭の中で、模造紙の絵がまた一回り大きくなった。ワインを軸に、この街の土から採れるうまいものを、次々に。それが揃えば、万能はただのワインの街ではなく――美食の郷になる。

「どこへ行けばいいんですか」和馬は訊いた。もうこの老いた伝書鳩の指し示す先を、疑わなくなっていた。

「まずは赤に合う肉だ」爺はもう背を向けていた。「北の果て。知床(しれとこ)の羊を見てこい。冷たい潮風で育った羊は、赤ワインと指を切るほど相性がいい」

「知床……また、北ですか」

「北の恵みは、まだ終わっちゃいねえ」毛糸の帽子が揺れた。「行ってこい。そして――くれぐれも後ろに気をつけろ。お前を嗅ぎ回る手は、もうこの街の中にもいる」

 その一言だけいつもと違う重さがあった。爺の影は、夜の街に静かに溶けて消えた。

 ひとり残された和馬は、もう一度、山の稜線を見上げた。

 眠れる七割五分。広すぎるがゆえの呪い。北まで伸びてきた、消された男の手。県と市の見えない綱引き。越えるべき壁はいくらでもあった。

 だが、和馬の胸の底にはいま、ひとつの確かな像があった。

 この山を、この土を、この街を、もう一度、金の生る大地に変える。その金で、山を守り子を育てる。そしていつか――お金にも、健康にも、人との繋がりにも、誰も悩まなくて済む。そんな知恵を、当たり前に手にできる仕組みを、この街に根づかせる。三つ目のいちばん奥の使命。だが、その"仕組み"がいったいどんな形をとるのかは、和馬自身にもまだはっきりとは見えていなかった。ただ、それがこの壮大な絵の、いちばん奥に静かに灯る、ほんとうのゴールだということだけはわかっていた。眠れる大地を起こすのは、そのための長い長い最初の一歩にすぎない。

 ふと、スマホの中のあの見出しがよぎった。〈大森小学校 閉校の方針へ〉。母校の、あの校庭の桜。給食のにおい。――なぜだろう。この街の"仕組み"を思うたびに、閉じられていくあの母校の姿が、胸の隅でかすかに疼く。その二つが、どこかで繋がっている気がする。だが、どう繋がるのかはまだわからない。わからないまま、和馬はその小さな疼きを、そっと胸の底にしまった。いつかその意味が、ぜんぶわかる日まで。

 和馬は、赤いスパークリングの一本を、そっと抱えた。冷たいガラスの中で、無数の泡が、いまも静かに春を待っている気がした。

 座って、池平。たった一駅から始まった旅は、いま、七割五分の設計図を手に、次の恵みを求めてさらに北の果てへと続こうとしていた。後ろに、見えない手の気配を感じながら。

(第10話 了)

 

音声解説

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次話予告――第11話「潮風の羊」。紅金に合う肉を求めて、和馬は北の果て・知床へ飛ぶ。冷たい潮風が育てる極上のラム。だが、いざ万能で羊を育てようとした時、思わぬ壁が立ちはだかる――羊は寒さに強く、暑さに弱い。万能の夏を、羊は越えられるのか。そして和馬の足元では、川上の締めつけが、じわりと強まっていく。


 

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著者

野口 和彦

野口 和彦

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肩書 会社役員 マーケティングコーチ 健康管理士一般指導員 前飯能市議会議員(3期)
党派・会派 無所属
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