2026/5/22
いま、国旗損壊を刑罰の対象にするべきかどうかという議論があります。ちょうどAbemaPrimeで議論されていたので、触発され私も思考してみました。
まず申し上げたいのは、私は国旗に対して強い敬意を持っています。国旗損壊など、感情として到底許せるものではありません。絶対にしてはならないことだと考えています。
ただ、そのうえでなお、これを新たに刑罰で裁くべきかと問われれば、私は反対の立場です。
私がそう考える背景には、自分自身の体験があります。
子どものころ、国旗については「何となく大事なもの」という、ぼんやりとした認識しか持っていませんでした。しかし、防衛大学校で過ごした4年間は、私にとって国旗を強く意識する時間でした。
毎朝、毎夕、国旗掲揚があります。国家が流れ、その時間には何をしていても国旗に向かって正対し、動きを止め、敬礼します。その静寂の時間の中で、「国とは何か」「自分は何のために訓練しているのか」を考えました。
国旗の扱い方は厳格に定められており、まさに神聖なものとして扱われていました。軽々しく触れることすらためらうほど、重みのある存在でした。そうした経験を通じて、私は国旗に対して、そして国家に対して、最大限の尊敬を持つようになりました。
だからこそ、私自身は国旗損壊など絶対にできませんし、許せません。
しかし、それでもなお、これを刑罰にすることには慎重であるべきだと考えています。
理由は大きく三つあります。
第一に、定義が曖昧だからです。
「国旗」とはどこまでを指すのか。本物の旗なのか、印刷物なのか、画像なのか、創作物なのか。
また、「損壊」とは何を意味するのか。破ることなのか、燃やすことなのか、落書きなのか、抗議表現なのか。
こうした線引きが曖昧なまま刑罰を科すことには、私は強い違和感があります。
第二に、当たり前にやってはいけないことを、法律と罰則で教えるのは違うのではないか、ということです。
もちろん法律は社会秩序を守るために必要です。しかし、すべてを刑罰で支える社会が健全だとは思いません。国旗への敬意のようなものは、本来、法による威嚇ではなく、社会の成熟とモラルの成熟によって支えられるべきものです。
第三に、愛国心は刑罰で育つものではないからです。
愛国心とは、罰せられるから持つものではありません。家族への感謝、地域への愛着、社会への信頼、国への誇り、そして世界の中で自分たちがどう生きるかという意識の中で育まれていくものだと思います。
だから私は、国旗を大切に思う気持ちを否定するのではなく、むしろその逆で、国旗を大切に思うからこそ、その尊重を刑罰で支えるのではなく、社会の側から自然に育つものにしたいと考えています。
そのために必要なのは、国民や市民が「この国を大切にしたい」と思える政治を続けることではないでしょうか。国や自治体が、一人ひとりの暮らしを大事にし続けること。誠実で、公正で、信頼される政治を積み重ねること。そうした営みの先にこそ、国旗や国家への自然な敬意が育つのだと思います。
国旗を守るとは、罰則を重くすることではありません。
国民が、この国を大切にしたいと思える社会をつくること。
私は、そのことの方がはるかに本質的だと考えています。
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トクミヤ ユウキ/32歳/男
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